【intro】 イトウワカナの悲喜こもごも

http://intro-sapporo.com/


★★ intro 「ブルーマウンテン号の卵と間違い探し」
8.18〜8.21 @札幌・ターミナルプラザことにパトス
  
★★コンカリーニョプロデュース公演「親の顔が見たい」演出2016年秋 



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ゆうこさんのこと

 数年前、会社の研修で本社に呼ばれた。
札幌からはわたし。
あとは北見の人、青森の人、埼玉の人、沖縄の人とほんとうに全国津々浦々。
沖縄の彼は、ほんとうに時間にルーズで、
社長、並びに役員クラスを30分待たせた。
びっくりした。
なににびっくりしたって、その、いたってふつうのことですよ感。
なんのこと〜?(アガル)みたいな。
そのとき、わたしは沖縄こそわたしの地だと思った。

で。

ゆうこさんというのは青森の人だ。
凛々しくきれいな顔立ちの女の子で、わたしより年はひとつぐらい上だった。
しっかりしてて、よく気のきく、女の子だった。
はじめましてのその夜に、宿泊先のホテルの部屋でみんなで呑んだ。

最初は仕事の話。そこから地域ごとの仕事の仕方、とか、
それぞれの地域の話をした。

ゆうこさんは、わたしたちに六ヶ所村の話をした。
六ヶ所村といえば、核燃料の再処理工場のある村だ。
知識といえばそれぐらい。
しかし、わたしはそこでとても驚いたのだ。
わたしは勝手に、それはナイーブな話だと思っていたから、
はじめて出会ったわたしたちに、いきなりそういう話ができるゆうこさんを
単純にかっこいいと思った。

原子力発電かぁ、、やだなあ、、ぐらいのモンしかなかったわたしと彼らに、
ゆうこさんは、どれだけこの工場が問題であるか、
原子力発電はどれだけ危険であるかを話した。
もちろん、ゆうこさんも酒が入っている。
もちろんわたしたちも酒が入っている。
しかしわたしたちは、聞いた。結構、真剣に。
下手すりゃ、昼間の研修より真剣だった。
わかんないことはゆうこさんにきいた。
ゆうこさんはすべて、答えてくれた。
正直な話、そこでの詳しい話はあまり覚えていない。
けれど、ゆうこさんの真剣さだけはしっかりと憶えている。
身近である、ということがこんなにも大きいことかと思った。

ゆうこさんは、

   こういう話をするのもナンだと思ったんだけど、
   せっかくいろんな土地の人と会うから、知ってほしくて

と言った。
そして、

   おともだちとか、いろんなひとに伝えて

と言った。

ゆうこさんのことを考えている。
ゆうこさんは、どういうきもちでいるかしらと思う。


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3月29日

 日常が一瞬にしてなくなった、というだれかの言葉を読み、
そうだな、と思った。
かといって、わたしは失われた日常のその後を、
非日常、だとは思っていなくて、またそれも、日常と解釈してしまっている。
飲み込んでしまったからだろうか。

用事があってドラッグストアで買い物をしたが、
いまは買う必要のないもののコーナーまで足を運んでいた。
きっと、こういうことなんだろうと思った。
わたしが、くせのようなもの、と思っていたそれ。

日常。
日常だったもの。
日々の常。
わたしにとってのそれは、なにか。
そんなものはとっくに答えがでているので、あえてここでは言わない。
が、
わたしは早々に日常を取り戻さなくてはならない。
そのために、このできごとを見続けなければならない。


信じることは苦手だ。
だから、信じたくて仕方がない。
かわりに、わたしはわたしのことを信用しすぎていると思う。
もちろんそれは揺らぐ。
わたしが信用してあげなかったら、どこへもいけなくなる気持ちもある。
それは、誠実ではない。


夢は毎晩見るようになった。
どこかしか、この大きなできごとと交差した夢をみる。
まったく場違いな空気の中で、
すごくいいプレイをした夢をみた。
体育館。
四つ打の音だけ覚えている。
ふだん、そんなプレイはしない。


 

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3月28日

 結局のところ、
わたしはここまで、ひどく甘ったれた日々を送ってきたので、
どうにも、日常やら生活が、理解できないのかと思います。
では、わたしのそれは、なんだったのかと思いますが、
愕然となどするわけもなく、
たぶん違うそれがあるのだなと思います。
もちろん、違うそれをしてみるつもりでいて、
そのことを考えると多少なりともわくわくします。
いつでも、新しいものというのはわたしを浮き足だたせます。
しかし、そんなことは、この世の一大事において、
どうでもよろしいのも事実です。
こういった己の小さくもない考えと、
世に起こるさまざまなあれこれを変わりばんこに見ていると、
なんとわたしは平和な奴だとも思います。
しかし、わたしはわたしで真剣なので、邪魔などされてたまるかとも思います。
なぜなら、わたしはこれからも生きていかなければならないのです。
生きていかなければならないから、
生きていく上で足をひっぱられそうなことは、できるだけちょんぎってしまうか、
きれいにほどいてしまうか、紐ごといただいていくかするしかないのです。
そのどれでも、それ以外の方法でも構いません。
たとえばそれが、わたし個人の小さな出来事であっても、自我のもつれであっても、
他者との関係によるねじれであっても、好きな人への思いであっても、おなじこと。
わたしのまわりの人が巻き込まれる悲惨な出来事も、
わたしの大事な人が心を傷めるできごとも、
わたしの知らない人たちが巻き込まれる理不尽な出来事も、
なにも悪くない人たちが悲しまなければならないことも、
プルトニウムもだ。すべておなじこと。
生きていかねばならぬので、邪魔をするなと申し上げたい。
起きたことは起きたこととして抱えるのにも
ただでさえ一苦労だというのに。

 

夢を見たのだけど、
また電車に乗る夢だった。
(最近、電車に乗る夢をよくみる)
その前にはエレベーターにも乗った。
なぜか小栗旬くんが迎えにきてくれた。
とりたててファンではないのだけど、
夢の中でも、そういう気持ちだったのがおもしろかった。

 

 

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3月27日
日常、とか、生活、とか、
そういうことばが意味することを、
わたしは感覚的に理解していないのではないか、と、
もうずっと考えていて、
だからといって、これだ!みたいなひらめきもやってくるわけでなし、
毎日をみとめる、ということから、
そこへ繋げていこうとしているわけです。
かといって、これが本来の毎日ではない、などという妄想もなく、
認めきっているわけですが。
なにか、他者とその見解が大きく違うような気がしてならないのは、
思い過ごしなのでしょうかね。
他人との差を知ることは、好きです。
己がはっきりするからです。
二十歳前までは非常に阿呆でして、
阿呆ではなくなったかというとそうではない気がしますが、思慮深くなったのは確かかと思います。
未だ世界が面白くて仕方ありません。
何故、の氾濫。
ある程度、世俗的なものから隔離されての子ども期でしたので、
大人になったいま、そういうことを求めているのかもしれません。
ところで、帰宅しないことで叱られる、ということが、まったく理解できないのです。
これはいかがなものか、と自分でも思うわけですが、理解できないわけです。
たぶんここに、日常と生活に繋がる何かがあるんじゃないかと思ってるんですが、
なかなか開けはしませんね。
わたしは、待つひと、になったことがないかもしれません。
いま、待ってみるのもいいかもしれません。
待つ、には、信じること、が必要なのではないかと思っていて、
待てないわたしは、信じていないのでしょう。
信じることは、苦手です。
いま、日常や生活、のわたしの見解の中のひとつに、
成果を求めるわけではないもの、ということがありますが、
それに対して、または、そのなかで、待つ、というのは、なんと骨の折れる作業かと、率直に思ってしまうわけです。
信じることがすべてのような気がするからです。
それは、恐怖です。
だから、曖昧なものを信じているのかと思うと、それもまた恐怖です。



夢をみた。
9歳まで住んでいた家に、また住むという夢で、
ほんとにお金がなくなってしまったので、実家を引き払いまたこちらに住むと両親がいうのだ。
かつての家のなかは家具だらけで、とても狭い。
わたしは、いやいや無理なんで出ていきます、というのだが、
起きたとき、現実だかなんだかわからなくて、
この家で過ごすのも最後か、などと思った。
ちなみに、その9歳まで住んでいた家は、いまはもうない。


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3月24日
ここ数日、
いろんなひととおはなししたり。
耐える、というキイワードが、
この一週間であった。

耐えること。
それはたぶん、
とてもむずかしい。
でも、やる。


自分の出番がまわってくるまで、
耐えること。
それはどういう出番かはわからない。
でも誰にもくる。
そのときがきたら、
すぐ動ける準備をしておくこと。
知っておくこと。
見ておくこと。
眼をそらさないこと。
想像すること。

日常、とはなにかと、
もうずっと考えているのだけど、
慣れのある日々のことをいうのだろうか。

札幌。
わたしの日常は、すでに更新されている。
更新されたからといって、良いとも限らないでしょう。
ただただ最新版。
最新のバージョンだけど、
どうにもこれは収まりわるいこころもち。
でも、とてもやわらかい気分なので、
どうしたものかと、素手でさわる。
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3月17日
じょうずに寝れない日々が続いていたみたいで、
それを5日目になって気づいた。

日付がよくわからなくなる。
毎日が、すすんでいないような気がするのだ。

ふつうの生活をおくれる土地にいてもこうだ。

いつもと同じにはもういかない。
かかえていくことになるんだろう。
かかえかたを、みんなきっと探しているんだろう。

粛々と、日常を過ごしたいとおもう。
お金もつかうし、ごはんも食べるし、
ちゃんと寝るし、わがままも言おう。
欲していこう。
それはとてもいいことだ。



ラジオを聴いていると、
元気になれる曲のリクエストおまちしています、っていう。
被災者の方に向けたリクエストおまちしています、とか。
でも、だいたいそれって、
札幌に住んでいる、不安なひとたちが、
不安が少しでもなくなるように、元気になれる曲、のリクエストなの。
被災者の方にむけた、とか言わなきゃいいのに、とは思うけど、
わるいとは思わない。
それも正直なきもちなんだとおもうし。
ちょっと疲れちゃうけどね。

いま、音楽が必要なひとはいる。
だから、演劇や、美術や、お笑いが必要なひとたちはいる。

命がかかってて、
ごはんや、水や、あたたかさが必要なひとたち、いっぱいいる。
そのひとたちが、
ごはんや水や、あたたかさに困らなくなって欲しいと祈る。
死んじゃうかもしれない恐怖から早く解放されてほしいと祈る。
そして、その恐怖からみんな必ず解放されるに違いないと願う。
そのときを待ちたい。
みなさんが、音楽や、演劇や美術やお笑いを欲する日が
早くきてほしいと願う。
その日はきっとすばらしい日だと思うの。

演劇は、生きていく上で必要なものではないと思う。
だからこそ、絶やしてはいけないと思う。

直近でたまたまわたしは公演がなくて、
やるかやらないかどうしよう、ということはないのだけど、
もし、そうだったとしたら、状況としてやれるのであれば、
わたしはまちがいなくやるんだと思う。

わたしは、宗教を持ってはいないけど、
祈る、ということばの意味がようやくわかった気がした。
なにもできないということを受け入れなければいけないのだね。

想像力だけは、失わないようにしたい。

とりとめもないけど、
いま思ってることのいくつか。


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ドレミ
目がさめるような音楽がききたいのだけど、
そういうときはあんまり、巡り合わないものです。

唐突にむこうから、ヤッとやってくるから、
目がさめるような気になるんでしょうし。

カッチョイー!とか、
ギャー!とか、は、ちょくちょくあるんですけどね。

クチロロの新譜は、
それはそれはすばらしかったのだけど、
そして、度肝も抜かれたのだけど、
いま、欲しがっている、目がさめるようなそれ、ではなかったのす。
ただし、すばらしい。

モヤリとしてたときに、たまたま見たせいか、
最近、いちばんガツンときたのは、
あの、例のシンディ・ローパーの歌。
てか、そのまわりのひとたちと。
あれは、とてもいい。
なんか、どうでもよくなるもんね。
いろいろカン違いしちゃうほどの、なにかがあるよ。

あと、こないだFMで、かかってた、
ラヴェルのボレロ。
あれ、かっこいいなぁ。
問答無用であがる。

中古ばかりを漁って、
見つけたいCDがあるんだけど、全然見つからなくて、
探してる最中に、ほかのものが目に入って、
あ、これ聞いてないぞ、とか、
あ、これはいまが買いです、と思って、
結局、探してるものじゃないものばかりを購入している。
その上、今日は半分失敗した。
しかも、持ってるやつ、また買ったかもしれない。ストロークス。

今日の最高の買い物は、
small circle of friendsの聴いてなかったやつ。
ヘッドフォンで聴くのにも向いてていい。




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3月6日
春も近いので、アクティブです。

帯広に、友人に会いに行ったりしてました。
アクティブ。

しかし、そのアクティブを邪魔するわたしの胃腸であります。
胃腸炎になりました。
がビン!
ウイルス性だそうです。ノロかロタだそうです。
数年前ほど、ノロウイルスに厳しくない世の中になりました。
いや、厳しいことは厳しい。
でも、あっさりしたもんです。慣れなのか。
先生も、そこはまあ、おんなじウイルスだから、ってなかんじで点滴です。
そろそろ復活してきまして、おなかはすきます。
ちょう味こいものたべたい。
お米だけ生活から卒業したい。
戦いです。

戦いのさなか、
チェルフィッチュ「ゾウガメのソニックライフ」をみに、埼玉へ参りました。
キラリ☆ふじみ
という名前のついた、富士見市のホール。かわいい。
道中、おなかにカイロ、片手にポカリです。
意外と夜は寒いの、東京。
電車と、ちょっとズルしてタクシーで、キラリ☆ふじみ。



まー!びびった!
がビン!
詳細は書きませぬ。
そっとわたしの胸に秘めておきますので、鍵をお探しください。

で、胃腸炎になる前は、
だれに会おう〜☆なんて、のんきに考えていましたけれども、
おなかいたいいたいわかにゃんですから、
おとなしく、じっとホテルで過ごしました。
ああ、もう。

翌日は、はじめての歌舞伎。をしました。
これがもう、強烈な体験。
なぜいままで見なかったのか!
なんとたのしい新橋演舞場!
高麗屋!音羽屋!成駒屋!成駒屋!成駒屋!
またもや、がビン!
めっちゃめちゃ良いシーンで、グスン、と、きたとこで、
飛行機の時間となりまして、






札幌へもどり、
コンカリーニョへ。
若い演出家と日本の戯曲「制服」をみましたよ。
良し悪し。
これのいろいろも胸に秘めておきますので、鍵をお探しください。

あ、同時上演「紙風船」もみました。
ひとがかわると、こうもかわる。
手ごわい。いい。

最近、
やっぱり演劇大学が引きがねで
既成戯曲が気になるわけです。
先日の、じゃぱどら!といい、
若い演出家と日本の戯曲、といい、
いいなぁ〜と思うわけであります。
でも、やっぱ、
手ごわい。
そんなことは、どうでもいい、と言っているかのように、
すぐれた戯曲というのは、かんたんには門をあけてはくれないのだな、と。
戯曲に真摯に向かう、ということに興味があるんでしょうね。
わたしは。

歌舞伎を見るために、
いわゆるパンフレットのようなものを購入したのですが、
そこに、簡単なインタビューが掲載されていまして、
歌舞伎の俳優さんは、みなさん、
自分の演じる役のことを、「お役」と呼ぶのです。
これはなんかあるぞ、とにんまりしました。


そんなことを考えながらも、まだおなかは痛いんですが。
そろそろ、わたしも動き出そうと、思います。

春くるし。
あ、
年中行事をちゃんとやる計画・ひなまつり、は
もろもろの都合により中止となっております。
まだ3月なのに!

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