東京では、時間堂が自前のスタジオ、十色庵toiroanの1周年記念。
そこで、「言祝ぎ」を上演しています。
自分が書いたものを誰かが演出する、ということはたびたびあるのですけど、
「言祝ぎ」は自分でもこれでもかってぐらいやっている作品なので、
なんだか感慨深いものがあります。
そもそも、半分ぐらいはあて書きで書いたはずだし、
introで上演する作品はintroのみで、と思っていたところもあるので、
こんなことになろうとは。はーおもしろい。
「言祝ぎ」とはいろいろあったけど、
ああわたし、言祝ぎ好きだわぁ、と、
世莉さんが送ってくれた時間堂版の映像見てたら思いました。
なんというか、付き合う時間が長過ぎて、
可愛さ余って憎さ百倍、みたいにはなっていたので。
時間堂に、世莉さんに、
わたしと「言祝ぎ」に距離を作ってもらえたなぁと思っています。
適切な距離があるでしょう、何事も。
それを失っては、見えるものも見えないし、触れるものも触れない。
自分が作ったものが、誰かの手によってどんどん遠くへ行くのが好きだ。
そのほうが豊かだと思っているのだと思う。
遠くへ行って、さらにそこで、新しい場所で、愛されるのならば、
そんな最高なことはないんじゃないかと思う。
戯曲というかたちで残っていくことは、
なるほど、とても豊かなことなのだなぁ!と体感で知るよね日曜の午後。
わたしには何かを残したい欲求がたしかにある。
ある、というか、これはたぶん、ここ1年ぐらいでできたことだ。
残すものはなんでもよい。
なので、遺伝子レベルでの話なんじゃないかと思っている。
かと言って、残すものはこれだ!と言えないのは、だって何も持っていないからで、
非常に奥歯のあたりがかゆいところである。
とは言え、
もう人生も長くねぇだろ、と思うので、積極的残し主義を押し進めたい。
他人に愛される、ということ、を、自分だけのものにしていないような感覚があるのだよねぇ。
箱にしまっとくものでもないというか。愛でたい。
そしてわたしは、
「蒸発」再演の稽古をしているのだけど、稽古場は汗まみれでやんす。
音を重ねまくっている感じ。
最終的には、リミックスしたものが出てゆくのではないかなーと思ってるけど、
どうなることかしらん。
夏。